毎日シャンプーするようになったのは最近のこと?

ノンシリコンやオイルシャンプー、オーガニックやダメージケアなど、

今やシャンプー選びもコスメ感覚。

ほぼ毎日髪を洗うのが当たり前の今日ですが、

日本のシャンプーの歴史は意外にも浅いのです。

初めてシャンプーが発売されたのは1920年代(大正時代)。

今のような液体シャンプーが一般に普及するようになったのは、戦後のことでした。

ちなみに石鹸(せっけん)が大衆向けに生産され始めたのは明治時代。

それまで、日本人はどうやって髪のお手入れをしていたのでしょう?

清少納言は1年に1回しか洗髪していなかった?

古代、髪を洗うことは、美容のためではなく穢れ(けがれ)をはらう宗教的儀式の意味合いが強かったそうです。

日常的な髪のお手入れは、

稲や麦を粉末にしたものを髪にまぶして櫛(くし)でとかすというもの。

水で洗ってケアするようになるのは、飛鳥時代からと言われています。

その頃は、植物の実や皮を煮出してシャンプー代わりにしていたようです。

清少納言が枕草子を書いた平安時代、美女と呼ばれるのは、

長い豊かな黒髪を持つ女性でした。

当時は女性が男性の前で顔を隠すことが礼儀とされていたため、

美しい髪は男性にアピールする大事な武器。

とはいえ、上流階級の女性でも洗髪するのはなんと1年に1回程度! 

お米のとぎ汁などを使って汚れを落としていたそうです。

当然、ニオイの問題は避けられず、ニオイを隠すために、

枕にお香を忍ばせて眠っていたのだとか。

江戸時代になると、洗髪の習慣はより身近なものになっていきます。

庶民でも、月に1〜2回洗髪をしていたようで、女性の洗髪姿が浮世絵に描かれています。

この時、使われていたのが、「ふのり」と「うどん粉」。

お湯にこれらを混ぜ合わせ、シャンプー代わりにしていたようです。

ほかにも、卵の白身を入れることもあったというから驚きですね。

江戸時代も「手に職」の美容師

江戸時代の女性たちは、美しい日本髪を結い上げるために、油をたくさん使って髪を固め、つやを出していました。髪を洗う時には、それをほどくのにひと苦労だったそうですが、長い髪を乾かして、もう一度結い上げるのもまた大仕事。プロに頼んで結ってもらうのは、芸者や歌舞伎役者など限られた人たちだけで、庶民は自分で髪を結うのが一般的だったそうです。

しかし江戸時代後半から日本髪の結い方が多種多様になるにつれて、庶民の間にもプロの「髪結い」が登場。これが美容師の起源とも言われています。技巧を凝らした日本髪は、素人では手に負えない複雑なヘアスタイル。そのため髪結いは人気商売で、女性でありながら、自立して生活できる手堅い仕事だったようです。

いつの世も女性の「美しくありたい」という思いは、変わることなくパワフルです。流行や素材は変わっていったとしても、その根っこにある美容に関わる研究は、永久不滅なのではないでしょうか。

ここまで話すとなんとも歴史作家の様ですね!まだまだ調べてきたことを書きます。

まず、庶民に限って言えば、髪を洗うのは、大体1ケ月に1回位でした。

今の時代とは全く違いますけど、3日もすれば・・・ですが、そうした匂いを隠すために、裕福な家庭では「伽羅油(きゃらゆ)」で、一般的には「五味子(ごみし)」という匂いの強い整髪剤を使っていました。

五味子・・・マツブサ科の植物で赤い実を葡萄のようにつけます。酸味が非常に強く、また、苦い。実や葉、茎から、やや「ネバネバ」した汁が採れる。しかし、整髪剤にだけではなく、実は乾燥させて、肝臓や肺臓の薬としても用いられました。

また、シャンプーの代わりとして用いられたのは、「ふのり」「うどん粉」「卵の白味」「椿油の搾りかす」などでした。

男性の場合:

すでに江戸時代初期から「髪結床」があり、橋のたもとや四辻(十字路)などの「露天」で商いをしていました。やがて、時代が安定してくると、自宅営業が主流となりましたが、「廻(まわ)り髪結」といって、出張営業する者もいました。この「廻り髪結」は大店の主人や割合経済状態の良い旗本などを「お得意様」として、2〜3日に1回、または、かなりの「おしゃれ」な主人になると毎朝、髪結を呼んで整髪(月代=さかやきを剃ったり、髪型を整えたり)させました。

女性の場合:

昔からの慣わしで、髪を自分で結えて、初めて「一人前」と言われ、自分で鏡を見て結うのが「嗜み(たしなみ)」とされていました。しかし、いつの時代でもファッションには余念がなく、髪型は、100種類以上にものぼり、女性専用として「女髪結」も登場するようになりました。だが、幕府は「女髪結」は一種の「贅沢」とみなし、たびたび「禁止令」を出しています。従って、「女髪結」は、もっぱら、隠れての「廻り髪結」で、自宅営業はできませんでした。

(よもやま話)

1.風呂は、おおよそ、各町内に1軒はありました。江戸で火災が起きると、一気に広範囲に焼失しましたので、防火の観点から、自宅に風呂を造ることは禁じられており、かの有名な大店「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ、風呂屋に通いました。

2.また、江戸では「神田上水」などができると、まあまあ、水の便は良くなりましたが、「薪」は近隣の農家から買い付けるので途轍もなく高かった。

3.そこへいくと、風呂屋は、と、言うと、8文位で「蕎麦」の16文の半分だったので、ご隠居風情になると、朝夕に風呂通いをしました。

4.「女髪結」が唯一「黙認」されたのは、芸者の髪を結うことでした。「吉原芸者」や「深川芸者」などの髪を結うのは「女性」に限られていました。男性が芸者の髪を結うと、今度は逆に「風紀上よろしからず」との禁止令が出されていました。

5.女性のヘアスタイルを大きくかえるきっかけとなったのは、江戸時代初期に有名になった「出雲の阿国」だと言われてています。歌舞伎の前進といわれる「お国歌舞伎」を踊り、阿国が男役を演じ、夫の名古屋三郎が女役を演じました。この時の阿国が結った髷(まげ)を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、女性の間で大流行しました。やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624〜1643)ころには「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髷が流行。元禄時代(1688〜1703)ころには「元禄島田髷」。明和年間(1764〜1771)ころには、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」。江戸後期〜明治初期には、芝居の「お染久松」でお染が結っていた「おそめ髷」などと変遷していきました。

6.髪結床は株仲間組織になっており、「株」がなければ営業はできなかった。しかし、天保の改革(1841〜1843)により営業は自由となった。料金は28文が相場だった。

7.徒弟制度も厳しく、まず「小僧」が客の元結(もとゆい)を切り、髪を梳(す)く。次に「中床(なかどこ)」が月代(さかやき)と顔を剃り、髪を仮元結で結ぶ。最後に「親方」が仕上げをした。

8.おもしろいことに、町奉行所またはその近辺で火事があると、髪結床が「梅床」とか「亀床」などという提灯をかざして、「駆けつけ、駆けつけ」と叫んで奉行所に向かった。現代の消防車のようなもので、皆、道を空けたという。なぜ?・・・というと、男衆が何人もいる商売は髪結床しかなかったからです。でも、力仕事なら大工は・・・と、いうと、現場がバラバラで集まりにくかった。そして、奉行所の書類は常に箱に入れられ麻縄がかけられており、次々と運び出したという。

9.風呂屋での洗髪は「ご法度」でした。これは、湯をたくさん使うことから、男も女も禁止されていました。唯一、頭を洗えたのは坊主頭にした「あんま」くらいのものでした。

10.では、どこで洗髪を・・・と、言うと、自宅でお湯を沸かして洗髪しました。夏には盥(たらい)で行水をし、洗髪をしました。

「髪結床」の話まで書きましたが、髪を触るところの原点の名前なんです。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP