人生は最後まで目が離せない…という話

終身現役でいたいと思っている人はどれだけいるかわかりませんが、仕事柄商売をしていますので自分自身生涯現役でいたいと思っております。

さて本日の話は「83歳の女子高校生球児」の話をして行きますね。みやざき中央新聞に載っていた記事をかたやまが少し編集して書いていきます。

今年の3月に定時制高校を卒業した83歳の上中別府チエさんの話が、NHKのラジオ深夜便で流れていた。

79歳で高校に入学。それだけでも凄いのにもっと面白かったのはチエさんが野球部に所属していたことだ。話を聞きながら、北村薫の短編小説「1950年のバックトス」を思い出した。

主人公は70歳を超えた「節子おばあちゃん」。ある日曜日の朝、田舎からひょっこり上京して孫の家にやってきた。翔太は小学3年生。母親の鮎子は、突然の訪問者に戸惑いながら「お義母さん、すみません。今日は翔太の少年野球の試合なんです」と相手をしてあげられないことを詫びた。しかし、以外にも節子が「私も応援に行くわ」と言うと、鮎子は「お灸じゃないのよ」とおちょくった。

試合が進む中、相手チームのバッターがの打ったボールが翔太のいるセカンドに飛んできた。素早くボールをとって一塁に送球。しかしボールはファーストミットを越えて、鮎子たちのいる一塁側の応援席に転がった。ランナーは一塁をけって二塁に走った。

鮎子がボールを拾ってあげようとしたら、節子が「触ったらダメ!」と一喝した。キャッチャーがボールを掴んで二塁に送球、ランナーはタッチアウトになった。節子は何食わぬ顔で拍手をしながら言った。「鮎子さん、敷石の内側に当たったらインプレイ、観客の体に当たったらエンタイトルツーベースになって、無条件で先の塁まで行けるのよ」鮎子は「はぁ?」と意味がわからない。「今まで誰にも言ってなかったけど私ね、昔、女子プロ野球の選手だったのよ」

鮎子と翔太は腰を抜かすほど驚いた。

1950年女子プロ野球

調べてみると、1950年間から確かに2年間だけプロ野球リーグは存在していました。

さて、まくら話はこれくらいにして、冒頭に紹介したチエさんは節子さんとは違って野球はど素人だった。その定時制野球部にはやんちゃな子が多かった。試合中に乱闘になる事もあった。野球部の監督で、チエさんの担任でもあった中島先生はチエさんに目をつけた。教師の言うことを聞かない生徒たちだが、彼女の言うことには素直に従っているのだ。中島先生はチエさんを「ドラフト1位」指名、入部させてしまった。

片山:ドラフト制度を使うとは担任先生ナイス!

チエさんが毎日やることは、球拾い、トンボを使ってのグランド整備、そして選手一人ひとりに「こんばんは」「よく頑張ってるね」と声をかけることだった。昭和5年生まれ。戦時中は竹槍やバケツリレー、配給生活を経験した。戦後は国民学校を卒業しても、上の学校には行かせてもらえず、家業である農業の手伝いをした。

結婚し、子育ても終わり、孫もできた頃、夫が他界した。そしてチエさんは決意した。子供の頃できなかった勉強をしようと。夜間中学校に入学、初めて英語を学んだ。3年生では「オバマ大統領の就任演説」にも挑んだ。卒業後定時制高校に入学した。

一回だけ公式戦に出たことがある。全国大会の県予選、11対1で勝っている試合で9回レフトに入った。ボールは飛んでこなかったが「100歳まで生きるつもりなのに、寿命が3年縮んだ」と笑った。

決勝戦でも活躍した。ピンチの場面で監督の指示をピッチャーに伝える為マウンドに走った。伝令である。この時、応援席から歓声が上った。試合は負け、泣き崩れるバッテリーの背中に手をおいてささやいた。「いい人生経験になったと思うよ。さあ行こう」

2009年、日本女子プロ野球リーグが復活した。その公式戦でチエさんは始球式を務めた。スタンドから声援が飛んできた。定時制高校のクラスメートと野球部の仲間が横断幕を持って応援に来ていた。

「若い人に伝えたいこと?諦めないことです」と話すチエさんは、後に『83歳の女子高校球児』と言う本を出す。

野球やサッカーばかりじゃない。人生もまた最後の最後まで目が離せない。

参考資料:みやざき中央新聞

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