中学の卒業をひかえ担任の大反対を押し切り、水産高校に入学。しかし上級生の毎朝理不尽なシメに体が異常をきたし、体調不良に。朝飯も食えず病院にいくと、盲腸の診断。
将来船乗りを目指していた私は、即座に手術を選択!二週間たって学校に戻ると、数学の授業の時間、先生の言葉がギリシャ語のように聞こえ、「こりゃだめじゃ」全く授業についていけない。「わからん、わからん」今まで感じたことのない、不安。
気がつくと、体の不調を理由に不登校になっていった。夢を持ち受験した学校でしたが、わずか一ヶ月で諦めてしまう結果になり、自身の不甲斐無さに心底がっかりしました。
だから、私は、誰かしらに「諦めるな!続けろ!」と言う資格は全くありません。このように
自身が大人への入り口の最初に失ってしまったのですから。
不登校は五月、六月、七月と続いていきました。その間、家の中はドンドン暗くなっていき、兄や姉も心配して家にちょくちょく帰ってくるようになっていました。友人もちょくちょく訪ねてきていましが、私は全く表に出ることが苦痛になっていました。 まさにひきこもり状態になっていったのです。
幼いころから言われていた道元坊主の姿も、小学校で児童会長、中学校で生徒会長や野球部キャプテンで他人をひっぱりながら、ひょうきん者の姿も消え失せて行ったのです
先が見えない暗いトンネルの中に自ら入って行くのです。
イヤフォンから聞こえる深夜放送が自分の楽しみになってきた頃、あるラジオドラマ番組が私の心を捕らえました。それが少年サンデーに連載されていたボクシング漫画の「がんばれ元気」でした
話の内容は知っていたのに、どんどん引き込まれていき、朝方の五時前に終わる頃には、自分の心の中が真っ暗闇だったトンネルの先に少し光が灯った気になったのです。「この時、何かが自分の中に目覚めました」
私の場合は、こんな小さな出来事からでした。まさに天からの声?が自分の中に聞こえ瞬間だったのかもしれません。後にも同じような経験をしますが、おそらくこのような感覚は人に話してもあまりピンとこないように思えるので、あまり外で話す事はありませんでした。
ともあれ、私は、「このままじゃだめだ」という内なる声に、少しずつではありましたが気がついていきました。するとある夜の事、深夜に目を覚ますと、両親の話す声が聞こえてきました。
「なんであんな風になったんかね~」「あんなに活発やった幸造が・・・」
「小児がんでもかかったんかね~」
か細いおふくろの声が聞こえてきました。
大きな病院で検査しても何も異常なし。
最後には、お払いのようなところにも連れて行かれ、拝み太鼓をたたき
果物を海に捨て・・・何の効き目もなし!
我子を思う親のせつなさ。
私は、ベッドの中で泣きました。自分が情けないのと
親の気持ちをはじめてその時に知ったのでした。
「かあちゃん、父ちゃん、俺は病気なんかじゃない。ごめんね・・・ごめんね」
人は、追いつめられると、どちらかに心のハリが振れていきます。
私の場合は、復活の方に振れました。
しかし・・・まだ十五歳の子供。
自分から立ち直るような強さもありませんでした。
甘えという二文字がよく似合う、情けない野郎でした。
すると不思議なことが、身の回りで次から次と起きていきました。
同級生が夏休みに入っていく頃でした。仲のよかった四人の男たちが、「幸造おるか」と勝手に家の中に入ってきました。いつもなら勝手に家の中に入ってくるようなヤツらではないのに、この時ばかりは違っていました。私の手を引っ張り外に連れ出されました。
彼らは、私に「もう一度お前と一緒に高校にいきたい」と告げてきました。
いろいろ自分で悩んでいた時期でしたから、この一言に私はものすごく救われました。思春期を一緒に過ごした彼らの言葉があったからこそ立ち直りが早かったと思って
います。
少しだけ灯りが、灯されたのでした。そして、決定的な出来事が起こります。引きこもりを続けていた私の家に、車が突っ込んできたのです。
蒸し暑い夏の夜の十二時頃でした。キーンっという金属音が聞こえてきました。次の瞬間「ドーン」と大きな音と共に家がミシミシと揺れました。何が起こったのかと思い、障子をあけると、外の景色が目の中に飛び込んできました。 ???一瞬何が起こったかわかりません。
でも、すぐに状況がつかめました。スポーツカーが家の表をはぎ取って電柱にくらいついていたのです。そばには白バイがいました。
よく知っている、地元の兄さんが、酒を飲み白バイに追いかけられていたのです。
三ヶ月余りほとんど外に出ることのなかった私は、こうやって外に出る羽目になっていくのでした。
幸い私の親父は大工だったので、自分の家を自分で修繕する事を選択します。これはそうした方が修理費も安くなるからで、事故を起こした兄さんへの思いやりでした。手伝いはもちろん私。もともと大工仕事は嫌いではなかったので、私はドンドン元気になっていったのでした。
夏を過ぎる頃には、兄の知り合いが仕事の現場にいくとき毎朝迎えに来るようになりました。これは兄貴が仕組んだことだったと後でわかります。また同級生が無理やり引っ張りだしたのも、三十年たったころ、中学校の野球部の監督からのアドバイスだったと友人から聞かされました。本当に私は人に迷惑ばかりかけ。そして助けられながら生きてきたのです。
おかげで、気持ちも持ち直し、再び高校受験に臨もうと決意し、勉強を始めました。
目指すは兄貴が通った工業高校。友人も通っていました。一通りの手続きを自分ですべて行い、学力のレベルを確認するためのテストも卒業した中学校で受けました。受験を受ける朝は友達に借りた学生服を着て兄貴に車で送ってもらいました。試験は自信がありました。
「これで、この春から友達と一緒に高校に行ける」私はそう思っていました。
一本の電話が鳴るまでは・・・
合格発表を二日後に控えたその日、電話に出た私に先方の方は「片山君は、水産高校をやめていますか?」と聞いてきました。
私は、「しまった」と思いました。休学のままでした。
あわてて、学校に退学届を出しに。しかしすでに時遅し!
かすかな望みを持って合格発表に向かいました。途方に暮れ、ずいぶん歩きました。泣きました。悔しいのと、友達との約束が守れない自分のふがいなさが重なって、
とにかく泣いて歩き続けました。後で出てくるようになりますが、ある場所まで歩き、ふっきるようにバスに乗り自宅に戻っていきます。家まで帰るバスの中自分がこれからどうしたらいいのか、全くわかりませんでした。
何をどうしていいのか、全くわかってない十六歳の春がそこまで来ていた三月でした。
そして・・・皮肉にも、この場所で、まさかの事が起きるのは三年後になります。
幼少期からの自らの体験や側にいる大人の影響を受け、その考え方や物事に対する姿勢は自分が大人になっても、影響が大きくなかなか抜け出せない場合もあるように思えます。私の場合どんな環境で育ってきたのか書いてみようと思います。
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