ふっと今日鏡を見てて自分の口元に目が行った。その時浮かんだのが、昔同じ傷を持った男に出会ったことだった。
人は、同じような傷があっても、全く違うことを心の中にずっと若いころは思うということを話してみたい。
若いころの思いは良いも悪いも全て大人が知らず知らずのうちに教え込んでいる。特に親がその立場にある。
口元に同じ傷を持つ青年に出会ったのは、私が25歳、彼が19歳の時だったと記憶にある。
色白で身長も180センチを超える色男だった。美容師の見習いで入ってきた彼の親は開業医だった。医者の息子がなぜ美容師を目指す?私はそう思った。
その答えはしばらくすると分かった。彼は親を憎んでいた。自分の唇がこうなったのは親のせいだと・・・私は、似たような傷を持っているから、彼に話した。
そんなに嫌なら、整形したらすぐ直るよと。俺はお前と同じような傷を持っているけど、なぜか親を憎んでもないし、気にもしていないけどね・・・と。私の傷は兄貴と遊んでいて8歳の時にできたけがが元。日曜日だったので国立の病院に行ったけど研修医だったようで、傷が残った。
彼は、自分でつまずいてこけて口元が裂けて、やはり医者がへたくそのように思っていたし、そのあと親が自分の傷をちゃんと治してくれなかったということを根に持っていた。
私は、そんなことを全く思わず10代を過ごしてきたやつなので、そんな人もいるんやと感じたけど、あほくさいと思ったのも事実。
今ならもっと優しく言えたかもしれないけど、お前そんな思いじゃダメやと言い放った。
全く説得力がなかったのは記憶にある。なぜなら彼はしばらくして店をやめた。
「顔の傷より心の傷」の方が大きいし、トラウマになりやすい。親は知らず知らずのうちにそんな傷をわが子に与えてることもあると思う。
気が付いていないのは、罪なのかもと思うけど、それもそんな親を選んで生まれてきたと気が付けば救いようがあるかもしれない。しかし、そんな教えなどにもなかなか出会えないのが現実の社会。
そういえばこんな話を聞いたことがある。その昔、有難屋吉兵衛という男がいたという。
この男、すこぶる楽天家であり、かつて不平不満を言ったことがなかったらしい。
その吉兵衛がある日、急いで外出しようとしたところ鴨居に頭をぶつけ、饅頭のようなこぶをつくったとき、何と言ったか?痛いとも言わず、両手でこぶをおさえながら「有難い、有難い」と感謝するばかりだった。
これを見ていた隣人は怪しんで尋ねたらしく、「吉兵衛さん、あんたはこぶができるほどの怪我をしながら、何が有難いのじゃ」
吉兵衛さんは答えた。
「有難いですよ。頭が割れても仕方がないのに、こぶぐらいで済んだんですもの。実に有難いと思います」と・・・
自身に起きた小さな不運にいつまでもとらわれていても、痛みが和らぐわけではないし、忌々しさがこみあげ、かえって痛みが増すのが落ち。
それよりも、その程度で事が済んだ幸運をかみしめるほうがよほどいい。
ユダヤ人ジョークの中にこんなのがある。
「ユダヤ人は足を折っても、片足で良かったと思い、 両足を折っても、首でなくて良かったと思う。首を折れば、もう何も心配することはない」
失ったものを数えるな。残っているものを数えよ。と・・・
そして、残っているものがあることに感謝し、それを最大限に活かそう。
これは良い言葉だと思う。
生きているからこそ心配できるのであって、もしも首を折って死んでしまえば心配することさえできない。だから、首が折れなかったことに感謝しよう。
今日も読んでくれてありがとございます。
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